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小説「視線」(第16回)

2017年3月12日ニュース

 男が工場に務めていた頃は、妻や二人の娘に仕事の話をしても会話が成立しないことを、男は承知していた。娘二人がまだ家にいた頃、4人で囲む朝と夜の食卓の席には、男と妻が向かい合わせで座り、妻の隣には上の娘が、男の横には下の娘が座っている。「女三人寄れば姦しい」その後の時間を気にすることのない夕食時は、女同士の会話は賑やかだ。話題はその日の出来事や食べ物、ファッション、芸能界と、3人の会話は途切れることなく続く。男はいつも一人蚊帳の外に置かれる。もっとも男がこのような話題に全く関心がないことを、女たちは知っている。男の方も、女たちの会話が家の前を往来する車の音のように、左の耳から入って右の耳から抜けていく雑音でしかない。男は黙って手酌で晩酌し、食卓に並べられた料理を口に入れる。

 妻が昼に見たテレビのワイドショー番組を持ち出すと、娘たちは「分かる、分かる。そうよ、そうよ」と言って、妻が提供した話題に、有る事無い事を付け加えて話を盛り上げる。週刊誌の記事のように誇張気味に伝えるワイドショーの話が、女3人によって更に増幅され、夜のワイドショー番組として、夕食の席で放映される。ある時、妻がセクシャルハラスメントを話のねたを持ち出してきた。ある大手企業の男性上司が部下の女性に性的な言動を繰り返していたという話だが、その話が娘たちの勤める会社の男性上司に対する悪口へと発展していった。
「お父さんの会社でも、セクシャルハラスメントってあるの?」
 上の娘が、突然、男に質問した。
「うちの工場は男ばっかりの職場だ。そんなこと全く関係ないね」と男が答えると、今度は「男ばっかりの職場とはいっても、事務職の女性社員だっているでしょう?」と畳み掛けて質問を繰り返した。
「うちにも女性社員が何人かはいるけど、お前たちの会社と違って、座って仕事をしているオフィスじゃない。立って仕事をしている工場だ。そんなことができる職場じゃないぞ」男は不機嫌な表情を浮かべて答えた。

 二人の娘が就職や結婚で家を出てからは、男と妻との会話は二人が顔を合わす食事時に集中している。いや、「会話」というよりは「事務連絡」に近かった。仕事の話が妻に通じないことを、男は分かっているので、妻の仕事である家事が話題になる。帰宅時間が遅くなるとか、昼の弁当は要らないとか、出張の予定が入ったとか、妻が毎日回す家事ラインに支障を来たすような情報を、男は妻に手短に伝える。妻からは「はい、分かりました」という返事が返ってきて、そこで会話は完結する。
 男が事務連絡を忘れたことで、妻の嫌みが男に返ってくることが度々あった。そんな時は、男は「すみませんでした。今度から気を付けます」と言って謝罪する。「言わぬが花」言い訳をすれば、角のある言葉が返ってくることを、男は知っている。
 一方、妻の方も、趣味や友達付き合いの話をしても、仕事の事しか頭にない夫に通じないことを知っているので、夫にも少しは関係がある家事の話を持ち出す。明日のごみ出し日に出すごみの事とか、家で洗濯する普段着やクリーニングに出す外出着の事とか、妻の家事ラインに乗せる仕掛かり品について、妻は夫に手短に告げる。男は「分かりました」と返事をして、そこで会話が終了する。

 男が会社勤めを終え、男と妻との会話が1日3回と増えたが、共通の話題は増えていない。朝、昼、晩の食事時に会話が途切れ、静かになった台所に、カシャカシャと食器を動かす音とモグモグと咀嚼する音が、沈黙の時間を埋める。そんな事を気にすることなく、男は黙って食事をするが、妻の方は耐えられないのか、突然、今朝の新聞に載っていた政治や経済の話を出してくる。男も読んで知っていることなので共通の話題にはなるが、所詮は他所事。話は長くは続かない。しかし、二人が暮らす場所で起きた出来事の場合は別だ。関心もあれば関係も出て来るかも知れない。
「あなた、この前、回覧板で回ってきた交番の防犯チラシを見た?」
「町内会の会報は見たけど、防犯チラシは見なかったね」
「最近、町内で自動販売機荒らしがあったって、チラシに書いてあったわ。チラシを見て思い出したんだけど、もしかして富田さんのお店の自販機じゃないかしら、この前、買い物に行ったら、奥さんが『知らないうちに、店の前の自販機から現金が抜き取られた』って言ってわ」
「ええ!富田さんのお店の自販機がやられたって。知らなかったな。現金が抜き取られたと言うけど、自販機を壊せば音が出るだろうし、音が出れば富田さんや近所の人が分かるんじゃないのかな?」
 富田さんは、近所で小さなスーパーを経営している。自宅は店舗の隣にある。
「それが不思議なのよ。自販機は全く壊されていなかったんですって。朝、いつものように自販機から現金を回収しようとドアを開けたら、なかにあるはずの現金がすっかり無くなっていたんですって」
「不思議だね。夜間の静かな住宅街でバールやハンマーなどを使って自販機を壊せば、大きな音が出て周辺に住む人たちに気づかれてしまう。どうやって犯人は自販機を壊さずに、現金だけを抜き取ったんだろうね」
「それと、もう一つ不思議なことがあるのよ。富田さんの店の前には自販機が2台設置してあるんだけど、やられたのは飲み物の自販機だけで、アイスクリームの方は現金が入ったままだったそうよ。でも自販機の前にお守りが落ちていたんですって」
「お守り?犯人の遺留品かな?」
「菅原神社の学業成就のお守りだったそうよ」
「菅原神社?」男は、実家の氏神社も八幡神社だったことを思い出した。
「どうかしたの?」
「いや、何でもない。そういえば、自販機荒らしの最新の手口を紹介した特報番組を思い出したよ」
「私、その番組を見ていないけど」
 (作:橘 左京)

posted by 地域政党 日本新生 管理者