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小説「視線」(第4回)

2017年2月16日ニュース

 2階の自室は上の娘が家に居た頃に使っていた畳部屋であるが、今は男の書斎兼寝室になっている。この部屋は妻の視線や妻が呟く小言から身を守るシェルター(避難場所)にもなっている。男が会社勤めをしている頃は気が付かなかったが、妻は几帳面で神経質な性格の持ち主だ。男がたった今使った居間の明かりやエアコンのスイッチ消し忘れ、男が今しがた使ったトイレと洗面所の電気の消し忘れや汚れが気になるらしい。1階の台所で、朝食に使った食器を洗っている妻の小言が2階の自室に居る男の耳に届くことがあるが、食器を洗う音に邪魔されて小言の中身がよく聞き取れない。
 聞き取れなかった妻の小言が、台所で昼食を食べている時に男の目の前で再現された。
「あなた。朝ご飯の時、ご飯粒やおかずを床にこぼしたでしょう。落ちていたわよ。まるで小さな子供みたいじゃないの」と妻は男に指摘した。
 小言に嫌味も加わって男の心を突き刺す。箸やスプーンからこぼれ落ちたのであれば気が付くだろうが、いったん口に入れた後にこぼれたのであれば、気が付かないこともある。男は、朝ご飯を食べた時、向かい合わせに座った妻の視線を避けるようにして下を向いて食事をとったことを思い出した。言い訳をすれば小言や嫌味が倍返しで返って来そうな空気を感じ取った男はうつむいて、
「ああ、すみません。今度から気を付けます」と答えた。

 男が工場勤めをしていた頃は、妻がどのようにして終日、家で過ごしているのか、関心もなければ気に掛けることもなかった。仕事を終えて家に帰れば、風呂や夕食の準備は出来ていたし、朝起きると朝食の支度が出来ていた。男が目を覚ますと、頭の中には今日の予定表が張り出され、体はまだ家にあっても、心の方は一足先に出社し会社にあった。「夫は会社で仕事、妻は家庭で家事と育児」という役割分担が、我が家の不文律となって日々の生活が繰り返されていた。

 しかし今は違う。男と妻は、一つ屋根の下で居間に掛けてある柱時計が刻む時の流れのなかで、場所と時間を共有している。男が消費する時間のほとんどは自由時間だ。一方、妻が消費する時間の3分の2は拘束時間で家事に費やされる。男は、家の中で家事をする妻の姿を見ながら、妻の家事労働が男の勤め先だった工場の生産ラインに似ていることに気づいた。1階にある台所、居間、トイレ、洗面所、風呂場は妻が敷いた生産ラインに組み込まれている。炊事、洗濯、掃除、買い物の順で時間通りに機械的に作業が流れていく。妻は生産ラインが思い通り時間通りに流れないといらいらして機嫌が悪くなる。その原因が男にあると妻が認定した場合は、容赦なく男に冷たい視線を浴びせ、時には嫌味や愚痴となって男の自尊心を傷つける。居間で新聞を読んだりやテレビを見たり、台所に飲み物を取りに行ったり、トイレに用を足しに行ったりすることに他意はない。普通で自然な家の中での振る舞いがどうして妻の機嫌を損ねるのか、男は理解に苦しんだ。

 「亭主元気で留守が良い」男が係長に昇進した年に放映されたテレビコマーシャルがきっかけとなって広まった流行語だ。夫は家にお金を入れるだけで良く、普段は家にいない方が妻にとって都合が良いということを意味する言葉だ。会社勤めを終えた男は会社からもらった退職金を取り崩して、毎月、妻に生活費を渡している。この点は流行語と同じだが、後半の「留守が良い」という点は違う。一日中、家に居る男が何かと目障りな存在となって妻の目に映るのだろうか。

 妻が持っている残り3分の1は自由時間だ。妻はこの時間を利用して、習い事や友達付き合いの時間に充てている。妻は同じ習い事をしている友人から「美味しい料理が食べられるお店を見つけたわよ」と誘われてランチに出掛けることがある。午前11時過ぎになると友人の運転する車が妻を迎えに来る。妻が友人とランチに出掛ける時は、留守番をする男の昼食の支度もあることから、生産ラインは通常よりも速く回転する。その日が来ると、男は朝食を食べた後、足早に台所を去って居間を素通りして2階の自室に逃げ込む。男が1階に居ると、生産ラインが止まったとか、回転が落ちたとか、妻から疑いの目で見られてはたまらないという心理が男に避難行動を促す。
(作:橘 左京)

posted by 地域政党 日本新生 管理者