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市政かわら版(創刊号)その2

2015年2月13日トピックス

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 選挙と民主主義を考える~阿賀野市長選挙と市議会議員選挙から見える票と金(税金)の配分を巡る貸し借りの関係

 私が阿賀野市長としての4年間(平成20年4月~24年4月)市政を担当して分かったことは、市長選と半年後に行われる市議選は、票と金(税金)配分を巡る貸し借りの関係になっているという点である。田中市政を見ても、このことがよくわかる。
 阿賀野市は平成16年4月1日に4町村(水原、安田、笹神、京ヶ瀬)が合併して誕生した。合併に伴う市長選挙は4月に行われたが、市議選については、在任特例を適用したため、合併して6か月後の10月に行われた。
 このように、阿賀野市では4月に行われる市長選挙と半年後の10月に行われる市議選が4年ごとに繰り返されているのである。阿賀野市と同じ平成16年4月1日に合併してできた村上市のように、市長選と市議選を4月に同時実施していれば選挙は1回で済む。選挙費用も2回やるよりは安くなる。一部の町村議員のエゴで在任特例を適用したため、4年ごとに余分な税金を使っているのである。
 さて、私が初めて選挙に臨んだのは、平成20年4月の市長選挙である。私と当時のH市長の後継指名を受けたT氏(H市長時代の副市長)との一騎打ちという構図であった。
 私は前年12月末に県庁を退職して、年明け後に選挙準備を始めたが、当時の市議会議員の支援はなかった。市長選では「道の駅」建設の是非が争点となったが、私は「中止」、相手は「継続」であった。この争点に沿った形で市議の支援も分かれていた。2月に入ってから共産党の4人の市議から支援の申し出があり、3月に入ってからは非自民系市議3人の支援を受けて選挙戦に突入した。
 当選後、6月の初議会(6月定例会)に望んだわけであるが、市長派議員はわずか7人で、反市長派議員が19人という少数与党の状態で天野市政がスタートした。「道の駅」を中止された腹いせに、反市長派議員が市長に対する不信任案の議決(市長を首にすること)を考えていたふしがあったが、市長に対する不信任の議決には、議員数の3分の2以上が出席しその4分の3以上の同意がなければ成立しない。市議全員(26人)が出席した場合の不信任の議決に必要な人数は20人。数の上では1人足りないので、市長に対する不信任案の提出は見送りになった。しかし、翌年6月に市長に対する辞職勧告決議が成立した。法的拘束力はないが、過半数の議決で足りる。
 市長選の年の10月に市議選が行われたが定数は4減の22人。私の後援会も市長派議員を増やすため新人議員を模索したが、残念ながら擁立できなかった。選挙告示日には共産党を除く現職の市長派議員(3人)と元職1人の出陣式に出席し応援演説をしたが、当日17時までに定数(22人)を超える立候補の届け出がなかったため、結果は無投票当選。現職全員と2人の元職が当選。現職6人が引退し、代わりに2人の元職が返り咲いた形だ。この元職2人は当選後、市長派議員として私の市政運営を支えてくれた。市議選後の勢力分布は、市長派が9人と反市長派が13人。

 さて本題の「市長選挙と6か月後に行われる市議選において票と金(税金)の配分を巡る貸し借りの関係がある」という点について説明する。市議選が無投票となったため、私は市長選で借りた票を市議選で返すことができなくなった。市議選後の市長派議員は9人に増えたが、私(市長)からみた票の貸し借りで分類すると、「借り」状態の市議が7人、「貸し」状態の市議が1人である。「貸し借りのない」市議が1人。票で返せなければ金(税金)の配分で「借り」を返すしかない。市長派議員から出された予算措置を伴う要望にはある程度の配慮は必要だとの認識はあった。しかし、私が市長に就任した当時の市の財政状況は厳しく、市の借金残高を減らすなど、財政健全化計画の達成を優先したため、市長派議員の要望にはすべて応じるわけにはいかなかった。平成24年4月の市長選では、市長派議員のほぼ全員が私から離れた。私が票の「借り」を、金(税金)の配分で返せなかったことも私から離れた一因ではないか。
 田中市政は18人の市長派議員を抱えてスタートしたわけであるが(市議選後は16人)、市長選・市議選での「票」の貸し借りや「金(税金)」の配分による「票」の貸し借りの清算ができたのか、気になるところである。
(代表 天野市栄)

posted by 地域政党 日本新生 管理者