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大阪都構想の住民投票結果について~”形”は変えられなかったが”心”は変えることができた(その3)

2015年5月21日トピックス

 「大阪都構想」が政争の具(政局)になったことは大変残念なことである。「大阪都構想」を実現させるための法律(大都市地域特別区設置法)が民主党政権下の2012年8月、民主、自民、公明など各党の賛成で成立した。これは国政政党「日本維新の会」の共同代表である(当時)橋下徹大阪市長を地元大阪にくぎ付けにしておけば国政への転身を阻止できるとの思惑があったものと考えている。

 2012年12月の総選挙で自民党が政権を奪還し第2次安倍政権が誕生すると事情が変わってくる。安倍政権が「戦後レジームからの脱却」の本命にしているのが憲法改正(特に9条改正)である。憲法改正の発議には衆参両議院の総議員の3分の2以上の賛成が必要である。与党議員(自民・公明)が大多数を占める衆議院では3分の2の要件はクリアできるが、参議院では野党の協力がないと成立しない。そこで安倍政権が考えたのが、憲法改正に前向きな「日本維新の会」への接近である。

 「大阪都構想」への対応では自民党は本部・官邸と大阪府連(地方組織)とでねじれが生じた。本部・官邸は「支持」、府連は「不支持」と対応が分かれた。一方、公明党や日本維新の会を除く他の野党の対応は「不支持」で一致。政策的には「水と油」の関係にある自民党(大阪府連)と共産党が共同歩調をとって「反対」運動を繰り広げた。なぜか。「大阪都構想」が実現すれば、それを手土産に橋本徹氏が国政に転身し、日本維新の会が勢力を拡大することを恐れたのである。自民(大阪府連)、公明や野党の脳裏には、来夏の参議院選、次の衆議院選(ダブル選挙になる?)で日本維新の会の勢力が強い近畿圏の選挙区で議席を独占。なんていう悪夢が過ったにちがいない。だから、橋下つぶし(橋下氏の政界からの引退を企図)に動いた。特に野党第1党の民主党が第2の日本維新会に抱く危機感は相当なものと推察している。

 「大阪都構想」は、大阪市民(有権者数210万4076人)が自分たちの住むまちが将来においても繁栄(発展)させるためにはどうしたらよいのか。現状の形(大阪市)のままがいいのか。それとも形を変えた(大阪都)方がよいのかを考える機会を提供してくれた。これは、まさに「自分たちのことは自分たちで決める。」という地方自治の本旨を具現化したものであった。それが政局によって歪められたことは大変不幸なことである。(この項終わり)

(あとがき)
 私も市長として阿賀野市政を担当していた頃(平成20年4月~平成24年4月)に、市立病院の公設民営化(施設の老朽化による建て替えと民間医療機関への経営委託)問題が、市民不在の政争の具にされたことが思い出される。前市政の時に市立病院の常勤医師が半減し救急医療が停止した。病院経営の慢性的な赤字解消と老朽化した病院の建て替えという難問を解決するために、前市政で窮余の策として打ち出されたのが市立病院の公設民営化だ。私はその政策を継承した。一方で、同じく前市政で地域振興策として打ち出された「道の駅」構想は中止した。
 平成20年4月の市長選挙では、私と前市長の後継指名を受けた副市長経験者との一騎打ちであった。当時の市議の多く(20人)は副市長経験者を推したが、結果は私が当選。反市長派の市議は、私が「道の駅」構想の中止を選挙公約にして当選したことへの腹いせとばかりに、市立病院の公設民営化を政治闘争の道具として利用した。反対闘争の中心になったのが合併前の旧4か町村議員出身市議であった。この「道の駅」構想は旧4か町村時代に生まれた開発構想である。田中市政になってからは「市政」から旧4か「町村政」に戻った感じがする。ここで旧4か町村時代が恋しい町村議員出身市議に提案。いっそのこと市政を廃止し旧4か町村政に戻したらどうか。議員の数は元に戻るぞ。
(代表 天野 市栄)

posted by 地域政党 日本新生 管理者