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小説「廃屋の町」(第131回)

2018年1月12日ニュース

 市長選挙が終わって数日後、田沼市長の甘木雄一は野上昭一の家を訪ねた。甘木は建て付けの悪い玄関の引き戸を、ギー、ギー、ギーと、音を上げながら開けた。
「ごめんください」
 しばらく経って、奥から「どちらさまですか?」と男の声が聞こえた。
「田沼市長の甘木雄一です」
「甘木雄一?違うよ!あんたは野上治夫だろう?お前が来るのを待っていたよ」
 黒猫を抱いた野上が玄関に現れた。真っ黒に日焼けした顔をした野上治夫は父の昭一に向かって、「私が治夫だってことをお父さんは知っていたんですね。今日は当選の挨拶に伺いました」と言った。
「そうか。おめでとう、治夫。ここはお前の生まれた家だ。さあ、上がりなさい!」
「はい」
 治夫はミシミシと音を立てながら、昭一の後に続いて廊下を歩いた。通された六畳間の中央には座卓が置かれ、片隅に仏壇が据えられていた。
「今日は、お母さんと洋子の命日でしたね。二人に焼香させてもらってよろしいですか?」
「命日?ああ、そうだったか!」昭一は悲しげな表情を浮かべた。
 治夫は焼香台の手前に進み二人の遺影に向かって一礼した後、3回焼香し合掌した。
「聡子も洋子も草葉の陰で喜んでいることだろう」
 昭一は茶葉を入れた急須に湯を注いだ後、お茶の入った湯呑を治夫に差し出した。治夫は左手で湯呑を受けて言った。
「いつか、この日が来るんじゃないかって思っていました」
「私が消息を絶ってから、最初にお前に会った日のことを覚えているかい?」
「もちろん覚えています。もう30年も昔の話ですが、私が城南大学の夜間部に在籍していた時だったと思います。お父さんは上野駅の地下通路で私に声を掛けましたね?」
「ああ、忘れもしないあの時だ。正直、びっくりしたよ。あんなところで、お前と再開するとは思ってもみなかった。あの時、私がお前たち家族を見捨てたことを詫びるつもりだったんだが、お前は私の手を振り切って逃げるようにその場を立ち去ったね」
「すみません。剣岳の冬季登攀を計画していた私は、上野駅発富山行きの急行能登に乗るために急いでいました」
「一緒にいた人は甘木雄一さんだろう?」
「そうです。二人で冬の剣岳登頂を目指して登攀していましたが、山頂を目前にして、甘木君は滑落し亡くなりました。彼は私に、甘木雄一として人生を送ってくれと言い残して、私と繋がっているザイルを自分で切って谷底に落ちていきました。あの時から、これまで私は甘木雄一として生きてきました」
「今年2月頃だったが、お前は風間さんという方とこの家を訪ねて来たね。自分の素性が暴露されるかもしれないのに、どうして、ここを訪ねてきたんだね?」
「上野駅の地下通路で、偶然にもお父さんと出会った時に、お父さんは『私の話を聞いてくれないか?』って言ましたね?あの時、私に何を言いたかったのか、それを確かめたかったからです。風間君とこの家を訪ねたあの日、お父さんは、私が野上治夫だってことに気付いたんじゃないですか?」
「そのとおり。お前が息子の治夫だと確信したのは、治夫の遺影を見て口にした言葉だよ。治夫の遺影が別山尾根経路で登頂した剣岳山頂で撮った写真であることや、左手でVサインを出した治夫の写真を撮ったのが父親である私だということ、治夫本人でなければ分からないことを私の前で話した。一緒にいた風間さんは気付いていなかったようだが、私は、あんたが治夫本人に間違いないと思ったよ。もっとも治夫と同じ左利きであることは、私が向けた湯呑を左手で受けた時に気付いたけどね。あの場では、お前が治夫本人であることを質すことはできなかった。お前が甘木雄一さんに成り済ましていることが明らかになれば、山岳事故で亡くなった甘木雄一さんの遺志を継いで生きてきたお前の人生が台無しになるからね。市長当選だって無効になるかも知れない。嘘の立候補届けをしたことになるからね。当選無効になれば、お前の人生を二度狂わせたことになる。そんなことはできない。治夫、あんたは家族を捨てた私を、今でも恨んでいるだろう?」
(作:橘 左京)

posted by 地域政党 日本新生 管理者