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小説「視線」(第6回)

2017年2月20日ニュース

 向かい合わせに座った二人はテーブにあるメニュー表をそれぞれ開いた。
「あなた、今日はパスタが美味しそうね。パスタにしない」妻が男に提案した。
「ああ、それがいいね」男は反射的に答えた。男には選択権はない。
「いつものように、2種類別々に注文すれば、2種類のパスタが楽しめるわ。私はクリーム系のカルボナーラにするわ。あなたはトマト系のペスカトーレはどうかしら」
「ああ、それでいいよ」男は同じ言葉を繰り返した。
「本当にこれでいいの」珍しく妻が男に気を使って言った。
「ノープロブレム」男は言葉を変えて繰り返した。

 パスタ料理のいろはも知らないも男にとっては、どうでもいいことだった。パスタがマカロニやスパゲッティの類を総称したイタリア語であると、男が知ったのは最近のことだ。男が子供の頃から知っているパスタ料理といえば、マカロニサラダとミートソースだけだ。
「済みません。カルボナーラとペスカトーレをお願いします。それと取り皿も一緒にお願いします」
 妻は水の入ったコップを持って来た店員に注文を入れた。
「あなた。退職して半年が経ったけど、時間を持て余し気味じゃないの。普段のあなたを見ていると、よく分かるのよ」
 ランチが出来上がるのを待ちながら妻が男に言った。
「君にはそういう風に見えるかもしれないが、今は工場勤めの頃に使い過ぎた体と心を休める時間に充てているんだ」
「退職してもう半年が過ぎたわ。充分、静養できたんじゃないの」
「体の疲れはなくなっても心の疲労感がまだ抜けていないんだ」

 男は3年前に起きた出来事を思い出した。男が勤めていた工場で製造され米国に輸出された高級車の電子制御装置に不具合が見つかったとして、会社は米運輸省高速道路交通安全局 (NHTSA)に大規模なリコールを届け出た。対象車は50万台余りに上った。当時、副工場長だった男はその対応に追われた。また、男の直属の部下で電子制御装置の生産ラインの責任者だった担当課長が事後処理に忙殺されて過労死した。この部下は一家の大黒柱となって妻と3人の子供を養っていた。遺族の心情を察すると、それが痛恨の極みとなって男の心に刻まれていた。
(作:橘 左京)

posted by 地域政党 日本新生 管理者