小説「強欲な町」(第4回)
数日後、森田由美子が田沼市役所に井上市長を訪ねた。
「失礼します。市長、森田さんという女性の方が市長と面会したいといらっしゃいましたが…」
市長室に入った総務部総務課秘書係長の日下部俊夫が一礼して言った。
「森田?ああ、分かった。日下部君、この後の日程はどうなっていたかね?」
「はい。午後1時半から、長谷川理事長さんとの面談が入っていますが、午前中は特に予定は入っていません」
「そうか。森田さんを部屋にお通して」
「はい、承知しました」
「失礼します」
黒の上着とスカートを穿いた森田は、一礼して市長室に入った。森田が市長室に入るのを確認した日下部は市長室のドアを静かに閉めた。
「井上市長さん、本日はお忙しい中、お時間を割いていただきありがとうございます。先日、奥様からご連絡をいただき、市長さんからご契約いただいた『トリプル・リターン』について、ご説明申し上げたく伺いしました」
「さー、どうぞ」井上は森田に着座を促した。
コの字型に配置されたソファーの肘掛け椅子に井上が座って、井上の右側のソファーに森田が座った。森田は黒い営業鞄から書類を取り出して、説明を始めた。
「市長様からご契約いただいた『トリプル・リターン』は、日本株式と外国株式をそれぞれ50%ずつ組み入れた資産で運用されています。外国株式の大部分はアメリカの株式ですが、今回のリーマン・ブラザーズの経営破綻が金融市場に与える影響は限定的と考えています。リーマンの身売り先の交渉にあたって、アメリカ政府当局は仲介の労をとっていますが、一民間企業の経営問題として片づけ、最終的には公的資金の注入を拒否しました」
傍らで森田の話を聞いていた井上は、かつて「四大証券」の一角にあった山一證券の経営破綻を思い出した。不正会計(損失隠し)事件を起こした山一證券は、事件後、政府による資金注入を受けることなく経営破綻し、平成9年11月24日に廃業した。森田は話を続けた。
「市長様から買って頂いた『トリプル・リターン』は長期の運用で高いリターンを得ることを目的に販売された商品です。この資料をご覧ください」
森田は鞄から『トリプル・リターン』の月次運用レポートを取り出した。過去10年間の運用実績の推移グラフが表示されたページを開いて井上の前に示した。
「この資料を見てお分かり頂けると思いますが、『トリプル・リターン』が販売された平成10年の運用資産(投資信託)の基準価格を100とすれば、平成20年の価格が300になっています。100から300ですから、運用資産の価格が『トリプル』つまりは3倍に増えたことになります…」
「森田さん、この資料、同じ向きで見た方がいいね。あなたも説明し易いでしょう」
井上は肘掛椅子からソファーに移って森田の左横に腰を寄せた。井上の右腕は森田の腰を絡めた、左手は森田の太腿に伸びた。
資料に目を落としていた森田は顔を井上に向けて、
「市長さん、いけませんわ。場所が違います」
太腿に触れた井上の左手を右手で追い払うようして言った。
「そうだね、由美ちゃん。この話の続きは二人きりになれる静かな場所で聞かせてもらうよ」
井上と森田は井上が富山県職員時代の上司と部下の関係であった。
(作:橘 左京)