小説「廃屋の町」(第120回)
3月中旬、市長選挙が1か月後に迫っていた。
「こんにちは、甘木はいますか?」
地域新聞「月刊たぬま新報」編集長の高橋義男が甘木の事務所を訪ねた。
「あら、高橋君じゃないの?甘木君は健ちゃんと出掛けているわ。もうすぐ戻ってくると思うけどね」
事務所番をしていた久保田恵子が答えた。
「今日は取材?」
「半分は取材で、半分は情報提供だよ」
「何、情報提供って?井上陣営に関する情報ってこと?」
久保田は熱いコーヒーを入れたカップを高橋の前に置いた。
「2人が来てから話すよ。恵ちゃんが入れてくれたコーヒーのようにホットな情報だよ」
「どんな情報かしら。楽しみだわ。でも記者っていいわね、取材であれば、遠慮なく、候補者の選挙事務所には出入りできるんだもの」
「普通の記者ならそうだろうけど、僕の場合は、井上陣営から甘木の同級生だっていうレッテルを張られているから、警戒されて核心部分はなかなか聞き出せないね」
「井上事務所の中ってはどんな感じなの?」
「選対本部長の遠山議長と、井上市長の後援会長を務めている田沼市土地改良区の松本正蔵理事長が選対副部長として、事務所に常駐しているみたいだよ。この前、事務所に行った時は、数名の女の人がパンフレットの仕分け作業をしていたね。それと作業服を着た人たちがパンフレットを車に積み込んでいたよ」
「作業服姿の人って、もしかして建設会社から動員された人たちじゃないの?」
「作業服に会社の名前が入っていたから、そうだと思うよ。事務所の壁には業界団体の推薦書がびっしりと貼ってあったよ。それに為書きもあったよ」髙橋が言った。
「為書き?」
「選挙の時に『何某候補の為に』として『祈必勝』などと大書して選挙事務所に届ける激励ビラのことだよ。主に国会議員や県議会議員が激励ビラを届けることが多いみたいだね」
「向こうは業界団体丸抱えの組織選挙だから仕方がないわね。それに比べてうちの事務所は寂しいわね。私たち同級生の寄せ書きしかないわ」
「そんなことはないよ。僕たち同級生が心を込めて書いた寄せ書きに勝るものはないよ。形だけの推薦書や為書きなんか、何の御利益もないよ」
「高橋君の寄せ書きには『為せば成る』って書いてあるけど、どういう意味?」
「正しくは『為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり』というんだ。やればできる、やる気があれば必ずやりとげられる、という意味だよ。江戸時代中期の米沢藩、今の山形県だけど、その9代目藩主の上杉鷹山が詠んだ歌だよ。アメリカのオバマ大統領が『イエス、ウィキャン』って言葉をよく使っていたけど、それと同じ意味だよ」
「そうね。選挙まで残りわずか。気合を入れて頑張りましょう」
(作:橘 左京)